第45回 現代建築セミナー

講師

バーナード・チュミ

テーマ VECTORS AND ENVELOPES
/ベクトル アンド エンベロップ
会場 2000年7月17日(大阪リサイタルホール)

はじめに

今日は具体的にいくつかのプロジェクトを紹介しながら、私の理論構築の一端を紹介してみたいと思います。

建築のいままでと異なる定義のための理論の展開です。建築を定義づける、また空間を明確にすることをエンベロップと表現しますが、従来の建築の多くは、人を包み込むもの、内部で人が休まるシェルターづくりでした。しかし、同時に人間の身体の動きがそのエンベロップをさらに活気づける、動きそのものが空間を活気づける、ひょっとしたら「建築の定義は運動を経由するのではないか」と考えついたのです。例えば建築は静止、安定、確固たるものと考えがちですが、他方、建築はダイナミックで動的なものでもあります。ここで紹介するプロジェクトは、建築の定義を探っていくものとして、運動し、動き続けていく建築です。

初期の動きに関する研究

学生時代、建築の仕事を始めた段階で私は他領域をいかに知っていくか、対話がどのように成立していくかを考えました。そのひとつが映画の世界です。映像には身体の動きが、実際の空間の静的定義づけと同じだけ重要な役割を担っているから、真っ先に関心をもちました。初期の映像にかぶせて私が考えていたことを少し紹介します。

運動ベクトルが何らかの形で人の姿に呼応したものになる例として「フランケンシュタイン博士」という古い映画があります。博士と怪物が闘い、運動ベクトルが踊りの振り付けのように見えてくる。動きが壁のようになり、闘いの空間になっていきます。

建築についての異なる解読の試みとしての計画案「マンハッタン・トランスクリプト」では、動きをとらえ、離反しながら接続していくという状況を扱っています。それらの運動と空間とイベントが、建築は何であり得るか、という定義のごく最初期の兆しを示してくれました。単に静的な空間やオブジェをつくり出すのでなく、建築は多元的であり、複数的なものであり、同時にイベントと空間と運動であり得る、ととらえることができ、建築は総体的には複雑なものになっていくという、もうひとつの定義づけが可能になりました。建築を複数の定義づけで見ていくと「マンハッタン・トランスクリプト」は1970年代後半の計画ですが、私自身が建築を一種の理論的な探索の道として見ていく上できわめて重要な存在です。そこには空間、運動、アクションのベクトルのすべてが見えています。

ラ・ヴィレット公園コンペ

ごく初期のこうした考え方から、空間の探索、分断、運動、それらの組み合わせを繰り返し探求し、そこから生まれたのが1983年の「ラ・ヴィレット公園」のコンペ案です。1980年代はじめの建築界では、過去からの引用など歴史的なものを探索する建築家が多かったのです。そこで私たちがやろうとしたのは、いくつかの理論的な建築を運動や空間のシステムとして見ていくなかにお互いにスーパーインポーズすることで、どのような建築の有り様があるかを模索することでした。

点、線、面を追及していくなかからつくっていきました。複数のスーパーインポーズが行われたことが考え方の出発点になっています。単純に建物だけでなく、お互い同士が隣接し合い、また全体的なコンテキストが隣り合わせていること、ここでの運動ベクトルがどのように横切り、探索していくのか、テクノロジーが実際に運動ベクトルをつくり出す上で、どのように関係していくかが重要です。また通過する場として、フォリーの間をどのようにベクトルが動くのか、これも重要でした。建築雑誌の多くはフォリーをちょうこくのように発表しましたが、建築は彫刻ではなく、そこで何が起きるかが重要であり、こうした施設が運動と空間の衝突の発生、いかに活動の発生源になり得るかという部分が重要です。単なるコンテキストや運動というだけでなく、イベントが重要でした。したがって、公園は常に活動と、これから起こり得る活動を受容する場であるべきです。建築はフォルム、つまり静的な定義づけだけでなく、イベントであり、動的、力学的な定義づけで論じられるべきです。

フランス国立図書館コンペその他

国立図書館のコンペでは、運動がプロジェクトの出発点になり、本と研究者、来館者の動きから計画しました。閲覧室のなかに人々の動線を通すことで、スーパーインポーズして運動と空間の関係をつかんでいます。

スイスのあるデパートのコンペ案では、買物客の動きから各階のグリッドという単純な構成が人の動きで活気づけられ、活性化し、イン・ビトゥィーン、狭間の空間にもそれが及ぶことを考えました。

1988年の関西国際空港コンペでは、このプロジェクトの解読法として、1.6kmもの長い建物を線状の都市ととらえ、空港を単に到着・出発のためだけでなく、ホテル・オフィス、文化施設、スポーツ施設などを加えて、新しいライフスタイルを生み出す場と考えました。ここでも運動ベクトルを挿入しています。このプロジェクトは新しいライフスタイルのいわば社会への声明にもなりました。

スイス・ローザンヌの「橋梁都市」計画では、市の中心部を新しい都市の考え方に基づいて再構成しています。谷間にいくつか橋をかけ、その橋は大学、ホテル、映画館、デパートといった機能を持ちます。これらはなかなか実現に結びつきませんでしたが、交通の結節点として計画した施設は、人々の動きの中心になるところで、目下建設中で4年後に完成予定です。

ベクトルからエンベロップへ

動きのベクトルの興味深い点は動きが封じ込められなくてエンベロップになっていく点で、建築がミニベクトルになっていきます。

1990年のオランダ・フロニンゲンの「ビデオ・ギャラリー」では、一連のビデオ展示空間において、建築は恒久的という期待の逆転ができるかという試みをしたものです。暴力、音楽、セックスといったビデオが描写する世界を全くパブリックな場に引き出し、シティスポットとし、究極の透明なガラスボックスにしました。ミースやフィリップ・ジョンソンのガラスハウスはまだ柱があるが、ここではグレーチングの床以外はすべて透明なガラスです。ギャラリー内部には少し勾配や傾きがあるため人は不安定感に陥る。そこで人は自分と重力の関係から空間を把握します。夜間は一層この効果が大きく発揮でき、ビデオモニターが映し出され、エンベロップが箱でなくダイナミックな存在そのものになります。これは規模は小さくても重要なプロジェクトで、エンベロップの考え方が私たちにとってますます重要であると認識できました。

タイム・マガジン社のための、ニューヨークのロワー・マンハッタンの既存建物屋上に建つ住宅計画でも、ガラスのエンベロップを提案しています。内部の配置はキッチンや浴室も含めて非常に流動的です。露出するのが好きな人のための空間で、ガラスの箱に彫刻的、流動的な住宅をつくります。

エンベロップは小さな空間だけでなく、非常に大規模な建築にも応用できます。もうすぐ完成の「フランス・ルーアンのコンサートホール」では、350m×70m、7000人収容の大規模な施設のためエンベロップが重要な役割になります。遮音等の問題からスキンを三重にしています。それぞれのスキンは異なる役割があり、外側の雨風を防ぎ建物を守るスキンと内側の音響用スキンの間に階段やランプを配置することで動きを発生させます。

フランス・フレノワ国立現代美術スタジオでは、解体予定の既存建物の大空間をそのまま生かし、大きな傘状の別な屋根をかけて、その間を動きの空間にしました。約100m四方の屋根の下にスタジオ、劇場、映画館、学生寮,食堂などをすべて納めています。お互い隣接する新旧の建物が共存し、その狭間に空調設備等を納めています。建築は構成でなく戦略そのものであるべきで、ここでは既存の建物と新しいものが、まるでシュールリアルのコラージュのように共存しています。1997年に完成しました。

マイアミの建築学校はこれから建設ですが、スタジオ、研究室、講義室、図書館、ギャラリーなどをリンクさせつつ、その狭間の空間を活性化します。ラ・ヴィレットでの静的なフォリーに生じる動きとは異なり、ここではさらに進んでベクトルそのものの動き、建物自体の幾何学的形態も変え得ると考え始めたことです。これは、十数年間のコンピュータ技術のめざましい発展の成果です。コロンビア大学では世界的にも稀有なコンピュータを駆使しての実験をやっていますが、それらを建築に適用しました。マイアミでは入館者の動きに合わせて変形させていき、建築の形態決定に役立てようと試みました。動きのベクトルと空間がお互いに遊び始め、動きが先か空間が先か区別できなくなります。

最近第1期が完成したパリ郊外の国立建築学校では、展示室、講堂、食堂などを四周の研究室やオフィス棟で囲んだ中央のアトリウムに包み込むように配置しています。全体を活性化するのが、この中央に配置された箱たちです。フロニンゲンのガラスのギャラリー同様、ここでも透明なエンベロップを通して人が歩くことで空間が活性化し、それがまた次の動きにつながります。

コロンビア大学ラーナー学生センター

ラ・ヴィレット公園の赤いフォリーは、完璧な彫刻でなく、隣り合う建物との関係のなかで遊ぶことが大事でした。コロンビア大学ラーナー学生センターでは、キャンパス内にある古い歴史様式の、力強い古典主義的建築のなかにいかに計画するかが課題でした。

敷地はキャンパスの端にあり、マッキム・ミード・アンド・ホワイトの1870年からのマスタープランも存在していました。学生センターに求められたのは大きな講堂需要に応えることと学内の動線の整理であり、特にキャンパスは横を走るブロードウェイ通りより一段高く、その段差を解消した上で低いレベルでまわりの建物と連結することが必要でした。そこで学生の動線スペースにランプを設置することでそのレベル差を吸収しました。動き自体が建物内の主要な活動の存在になり得る、ランプを移動することでさまざまな部屋につながります。ランプ自体が予測できないイベントの場となります。

プログラムとは、クライアントから与えられることが多い予測可能なものですが、イベントは文書化されたものでなく、予測不能なものです。既存の、19世紀のロジックの延長線上にありながら、それを引っ張っていくことをコンテキストの中身としました。

コンセプトのあるところには、技術的に新しい発明と発見があります。学生センターのランプのあるハブ空間でも、ラ・ヴィレット公園の構造設計のピーター・ライスとの協働が大きく影響しています。ワンピース400kgもあるガラスをフランスからコンテナで運び込み、15年前にライスが発明したメタルによるシステムでつなぎ合わせています。ハブ空間は透明性が大きなテーマで、キャンパスがすべて見え、スキン自体が内外両側からの視線を受け入れ、ガラス壁がスキンの動きの一部になります。

実際に使われ始めると、空間に動きが投影されていきます。ガラス壁と反対側の壁沿いに約6000人分のメールボックスがあり、常時学生が立ち寄ります。講堂以外にも映画館やギャラリーや劇場があり、さまざまに使われ、ベクトルとエンベロップのダイアローグが展開されます。ランプも舞台になります。

ここでコロンビア大学学生センターを舞台にしてベニス・ビエンナーレのために音楽プロデューサーと一緒につくったビデオを上映します。「建築はフォルムにとどまらず、空間と動きとイベントによるものである」という、私のいわんとするコンセプトをそこから読み取ってください(7分間ビデオ上映)。

質疑応答

Q
質問1:チュミさんの作品には通路やランプなどリニアーな要素がある。人々の動きと直線の関係に制限はないのか、イベントはコントロールできない性質のものだが、その概念と直線は矛盾しないのか。
A

チュミ:おっしゃるとおりです。目に見える動きはそれぞれ方向性をもっていますし、今回紹介した事例は明らかに方向を定めています。しかし、フレノワのような作品ではベクトルとしては方向を定めるが、大空間でランダムな動きを可能にしています。コロンビアの場合も幅があるので学生たちはここで「プロパガンダ・ランプ」と呼んでポスターを貼ったりTシャツを売ったりしています。ランダムな動きのフィールドとベクトルは区別すべきですね。今回の話ではベクトルとエンベロップの関係を示すためにベクトルの考え方を強調しましたが、両方が存在します。

Q
質問2:運動とイベントと事象はよく分かったが、それを実現する空間のキーワードにとって透明性は少し矛盾するのではないか。
A

チュミ:ガラスのエンベロップに魅惑されています。封じ込みながら見せられるからです。不透明から半透明、さらに完全な透明にいく過程も現代建築の探索の一部で、あいまいさも従来の建築観と異なり重要になります。空間に視覚も触感も加えて、いかに多孔性を実現できるか、まだまだ可能性は大きく、厳密な建築の定義も消滅しかけています。

Q
質問3:見えることで発生するイベントについてお聞きしたい。
A

チュミ:壁の概念も変わってきており、単に見えるとは別の、スクリーンあるいはスクリーニングという言葉を私は意識的に使いますが、スクリーンは映画にも通じ、それがバーチャルな世界でも使われるようになっています。静止、恒久的という伝統的な建築のなかでのイベントや動きでなく、スキン自体が不確実で不確定なスクリーニング的な世界がイベントの一部になっています。

Q
質問4:コロンビアの、6000人の学生のためのメールボックスは劇的だが、この配置は意図的か偶然か。
A

チュミ:両方です。学生センターは設計以前のコンサルによるフィージビリティ・スタディによる、本当に郵便物の出し入れがこれで可能かなどの検討を経て、動線と合わせて廊下に配置すること、裏から配達できることでこの案を提示したところ、郵便配達員が「こんな斜めの箱に配達できない」と怒り始め、郵政省のえらい人に苦情を書いたのですが、大学側はこれをぜひやりたいと通してくれました。会館としては時間によっては映画も講義もない空白の時間があるが、メールボックスにはだれかがいつも取りにくる。その動きがここには重要だったのです。

Q
質問5:日本ではAAスクールやコロンビア大学のように、建築を考え、ていねいな議論ができる場が少ないので非常にうらやましく思う。建築を普遍的に定義するようでありながら、最後の作品は見慣れないものになる。これはインパクトと同時にある種の戸惑いを感じる。初期の「マンハッタン・トランスクリプト」において引用された「フランケンシュタイン博士」のムーブメントに関して、チュミさんはこの映画がたいへんお好きなんじゃないか、フランケンシュタインとチュミさんは一体ではないかと思う。
A

チュミ:建築家はみんなそうです。フランケンシュタイン博士なのです。その産物として、建築家はどのような怪物をつくるのか、そして怪物はどのように見えるかでなく、何をするかが問題なのです。もしもその怪物がすばらしい偉業をなせば、私たちの状況、あり方をよりよいものにしてくれるならば、私はフランケンシュタイン博士にぜひなりたいと思います。

Q
質問6:動きを中心として、動きから空間へ、さらに空間から動きに戻るというお話の流れだった。しかしダイナミックな動きとは別に、ベクトルの小さな動きもある。例えばじっとしていたいとか祈りの空間、沈黙という状況も行動のあり方のひとつ。その辺はどのようにとらえられておられるのか。
A

チュミ:動きを語る際には、すべてを含みます。当初、私はダンサーの動きや振り付けに強い関心をもちました。舞踊は身体の動きと同様、ほんのわずかな指の動きも大事です。また建築のスケールとも関わりますが、コロンビア大学学生センターでは、アメリカではコンクリート打放しの精度が悪く、仕上がりがよくないので,ここではその粗いコンクリートと繊細なメタルのコントラストを意識的に使い分けました。コンクリートがラフな大きな動きを、メタルは繊細で小さな動きを表現しています。

Q
質問7:いまの質問にも関連するが、動きにおいて、ベクトルの小さなもの、すなわち身体の動きは小さくとも精神的な動きがあるということもあると思うが、チュミさんのさきほどの答はマテリアルの話になってしまった。精神的な動きということではどうか。
A

チュミ:今日の話では意識的に精神の動きについての話題は避けた。精神的というよりコンセプチュアルという言葉のほうがふさわしいでしょうが、いずれにしてもそれは建築につきまとう。建築はコンセプト、アイディアに関わるものであると同時に体験、経験にも深く関わります。私を惹きつけ続けていることは「建築は経験とコンセプトが同時に体現できる」ということです。ユーザーがそれを読み解いて解釈するべきで、精神的な次元はユーザーが見出していってほしいと考えます。建築家として、常に精神的な次元を取り入れていくことには慎重です。解釈に関しては建築家が直接与えるべきではありません。いい質問をありがとう(拍手)。