第53回 現代建築セミナー

講師

古谷 誠章(建築家)

テーマ 「空間・時間・人間-時間と人間が建築をつくる」
会場 2004年2月19日(広島YMCAホール)

はじめに

広島にきますと、1986年から1994年までの8年間教鞭をとっておりましたので「帰ってきた」という気持ちです。子供が1歳と3歳で、自転車で自宅のあった緑町からいろいろなところに出かけ、子育てを含めてたいへん貴重な時期を過ごしました。今日は建築のなかでも住空間にスポットを当ててお話します。タイトルの「空間・時間・人間-時間と人間が建築をつくる」とは、建築家や施工者が建物はつくるが、本当のところは建築は竣工したその日からつくられ始めるのではないかということです。

マリオ・ボッタ事務所時代

広島時代に1年間スイスのマリオ・ボッタ事務所に文化庁在外研修員として行きました。その余暇時間を利用してスイスやイタリア各地を回った体験をいつくか紹介します。それらは僕の建築の背景になっています。
まずヴェネチアです。建築とは柱、壁、床、屋根にかたどられる、そのなかの空間という認識が学生時代からありましたが、空気のような目に見えない空間をどう認識するか、空間を充たしているものを掴みとりたいと思っていました。象設計集団の冨田玲子さんがかつて学生にいった「教室にただ並んでいるのでなく、胸までお湯につかっていると考えたら、そこにいる人間がある空間を共有することになる」といったお話に啓蒙されてもいました。図面上では、普通の街は建物を黒く塗ると道や公園が白く残るが、ヴェネチアは白黒の2色で分けられない、隅々に行き亘った水の部分があって、もう1色必要な街で、水の存在がヴェネチアを非常に豊かな街にしている。僕はこの水の効用を非常に大事に感じています。 ヴェネチアが生んだ建築家のカルロ・スカルパも僕にとっては大事な存在です。1948年のビエンナーレのパウル・クレー・パビリオンで、スカルパは額縁でなく、折りたたみ屏風のようなデザインで絵を展示しました。この手法はスカルパの数多くの展示空間のどこでも変わらない。ひとつの作品にひとつの空間を与えます。それらは独立していながら相互に関連し合う。パレルモにある戦災を受けたパラッツォ・アバテリス美術館は1954年の修復作品ですが、中庭に展示物と換気口などの建築の要素が併置されて渾然一体としています。砕け散った建築のばらばらな要素を再構成するなかに新しいものを混ぜ合わせるのがスカルパの真骨頂です。ビエンナーレのブランクーシ館でも、カノーバ石膏彫刻陳列館でもカステル・ヴェッキオ美術館でも同じです。ここにいくつものヒントが含まれています。スカルパの作品のほとんどが既存空間のリノベーションで、元々あるものをリデザインすることで新しい命を吹き込む、あるいはひとつひとつ別なものを組み合わせて近代建築の調和とは異なる調和を生み出す。そこに僕はすまいの家族の姿に近いものを感じます。ブリオン・ヴェガ墓地でもいろいろな要素が、敷地の外にあるものまで合わせて調和している。しかし、素材に厳しかったスカルパが、すぐに風化して汚れる薄いコンクリートでこの墓地を建てています。僕には、ブリオン夫妻に縁のあった人が生きている間は墓として存在し、そうした人がいなくなる頃にはひっそりと朽ち果てることをイメージしたように思うのです。時間とともに建築が風化していくようにつくったのだと考えました。

北京郊外のWeekend House

中国のディベロッパーが企画したプロジェクトで、アジアの建築家12人が万里の長城の見える谷間に別荘をつくりました。生きた建築の展覧会です。スカルパにならって材料、技術など中国独自のものと、日本の僕が組み合わさって生まれるものは何かを考えました。最もポピュラーな納屋をつくるれんがを型枠にしてコンクリートを打ち、鉄板を挟んだハイブリッドの12cmぐらいの角材で梁をかける提案をしましたが、技術的にどうしても無理と言われて、コンクリートを打ってれんがタイルを張るという妥協を受け入れました。梁も法規上の問題で鉄骨のまわりを3cmぐらいの木でボックスをつくって囲っています。これが現状です。この実験は技術的には挫折しましたが、森のなかを逍遥するような環境だけはつくれましたと思います。

モンゴルで得たヒント

ウランバートルからカラコルムに向けて400kmぐらい行ったところの街道唯一のドライブインでは、道路にコンテナのような店が並び、それぞれの店で女の人がギョーザなどの食料を売っています。だれが始めたのか、いきなりここまで増えたわけでなく、時間をかけて自然発生的にでき上がったものだと思います。コンテナだから、ここがだめなら他の場所に運べるわけです。
この旅でゲルに出会いました。1家族で周辺何kmも隣家がない状況の草原にあります。しかし、よく見るとプロペラがあって電気を起こし、パラボラアンテナがあって朝青龍の相撲を見ていたりします。冬は-30℃にもなるところで1家族で住むという、生存能力の高さに本当にびっくりしました。ゲルは丸いワンルームで仕切りのない1室住居です。まわりの自然が厳しく、内部が人が人と会う場所で、外がプライベート空間になる。ゲルが立ち去った跡はあっという間に自然に戻ります。しかし都会のウランバートルに近づくと、本来の遊牧民住居としての特徴が活かせなくなり、塀を立てたり鉄板で火の粉を防いだりすることになっているようです。

過密都市が教えるもの

都市は瞬時にできるのでなく、また1日たりとも止まっていないのです。超過密の香港の集合住宅を見ると、人間が呼吸するように、わずかな隙間から空気を取り入れ、また室貸しでなくベッド貸しのような究極のスペースシェアリングまで行われています。ところが香港では高密度なりに秩序があるが、日本ではそれが見えにくくなります。また例えば台北の商店街では、どの建物にも違法の増築部分がついている。バンコックでも非常に狭い通りで店が営業しつつ単車や屋台が行き交っている。あるいは郊外では電車が通るときだけ移動して除けるという線路上のマーケットがあったりする。いま紹介した空間はすべて計画してできるものではなく、時間をかけてつくられたものです。計画的につくれないものが地球上には数多くあり、実際にはそれらが計画したもの以上に生き生きと街を形成しているのです。

バウムハウス

1階1戸、2階1戸のわずか2戸のアパートで、室内は下駄箱も押入れも何もない空間です。台所も流しとレンジフードだけでコンロもない。ただし2.6mと天井は少し高く、居住者が好きにつくればいいと考えました。驚いたのは、下階に入ったミキシング・デザイナーで、ユニットボックスを積み上げたレコード棚をびっしりと配置して住んでいる。これは計画的に想定してつくってもだめですね。小さなバウムハウスが効を奏して、それ以降、アパート設計の依頼がたくさんきました。

高円寺南アパート

老朽化した木造賃貸の建替えで、敷地の関係でロフトつきの住戸が1階に3戸、2階に3戸の6戸のRC造、外断熱のアパートです。外装材を張ってまで外断熱をしているのは、年配の施主が娘さんに残そうと20年の借入金でやり、ローンの返済が終わる頃、建物がぼろぼろでは困る、その後の家賃収入の確保が目的のため、長持ちさせることを目指したものです。コンクリート打放しは室内にのみ現れているため汚れません。モンゴルのゲルほどオープンではないが、ややパブリックに使いこなせる構成にしました。東南アジアの人々が暑い陽射しを避けて木陰で昼寝する、それこそ最高の建築です。タイのムアンポン村に私が見たなかで世界で最もすばらしいといえる住宅があります。クローズド(主に寝室)、セミクローズド(キッチン)、オープン(涼み台)の3棟構成で、すべて住み手が自分でつくります。

狐ケ城の家

広島県黒瀬町に建つ住宅で、タイの住宅を知る前に同じような考えでつくりました。1軒の家のなかで、部屋に固有の名をつけずに透明度の異なる場所をつくっておく。個室化するなら建具で囲め、取り払えばオープンにもできるという家です。

憧れの建築家ジョン・ヘイダック

学生時代にいちばん好きだった建築家で、実現しない住宅のプロジェクトばかりの建築家ですが、非常に刺激的です。『a+u』1975年5月号で彼は「影響を受けた建築家は?」に「マルセル・プルーストです」と。「最も大切なことは?」に「端緒です」と。この端緒という答が大好きです。無造作に家具だけで構成している「ナイン・スクエア・グリッド」が僕はずっと気になっています。家具は建築家か住み手か、だれが置くのか、替えられるのか。実は家具は固定的なものではなく、存在そのものが重要です。ある形の3/4で全体を構成し、個室でなく、空間の異なる部屋を存在させている「3/4」シリーズも、学生時代に最も好きなプロジェクトでした。

ZIG HOUSE/ZAG HOUSE

ミースの「ファンズワース邸」もジョンソンの「ガラスの家」もがらんどうに家具を置いている。がらんどうに家具を置いて暮らす家をやったのが「ZIG HOUSE/ZAG HOUSE」です。片方に僕の両親が住み、もう一方に僕の家族が住んでいます。ZIG ZAGの真ん中はリビング的な空間になり、両端は寝室になってます。自宅なので少し冒険をして、集成材の柱に、奥多摩の間伐材を圧着・スライスしたものを編成材として使いました。折れ曲がる辺りにキッチンや水まわりがあり、下屋で飛び出していたりします。すべての部屋がつながり、移動できる家具で仕切るだけです。反射性のガラスの扉つきのさまざまな箱があり、下駄箱やアップライトのピアノ入れ、秘密の通路の入口、食器棚などになっています。

近藤内科病院

徳島市内に建つ緩和ケア病棟をもつ内科病院です。普通は治癒して帰宅するための病室が、末期ガン患者にとっては意味が違ってくるため、住宅と同じように考えて計画しました。病室が患者にとっての家なら、病院内部は街でなければならないと考えました。一般病棟や診療部門は上下の層で区別しています。設備の配管を自由にできるように、梁を扁平にしてアンボンドPC工法でたわみをとり、梁下を縦横無尽にダクトが通せるようにしました。内部はすべて造作の壁で取り外しが可能です。中央のナースステーションから、一直線の廊下で病室が見渡せるのでなく、少しルーズに配置し、見渡せなくても近くにという感じにしました。緩和ケアの患者さんは不安感もあってナースコールを頻繁にする方が多い。そんなときはナースステーションの傍にベッドを運んで、安心して眠ったりもできるように平面的にルーズにしてあります。一般病棟の多床室では、ベッドの枕元を廊下側に配置し、足が窓側というサンデッキ型にしました。また窓際にはカウンターがあり、食事をしたり、読書ができます。学生たちが実際の使われ方の調査を継続してやっています。

イル・カセット

福岡市に建つ商業ビルです。テナントの入れ替わりに対して、全館逆スラブを採用して模様替えを容易にしています。中央の吹抜け空間も将来容積率が上がれば床を増設できるように計算してある。つまり完成してからも展開し続けられる建築になっています。

神流町中里合同庁舎

中里村役場としてプロポーザルコンペで入選したが、工事中に合併して役場でなくなったという建物です。しかし、その予測は当初からあったので、ルーズながらんどうとして計画してあり、十分に対応できています。役場の諸室になる予定の部屋が、それぞれ地域住民のためのさまざまな使い方のできる部屋になっています。隣接地の小中学校の生徒たちとワークショップを開いて将来の使い道を一緒に考えました。生徒たちが社会人になって戻ってきて、新しい使い道を模索してくれることを願っていろいろやりました。 実はこの敷地のすぐ目の前にある体育館の建替えの設計を特命受注し、いま工事中です。地場産で余り気味の90mm角の材木を使ってZIG HOUSE/ZAG HOUSEの鉄骨版をやっています。鉄骨に角材を野地板のように並べています。もうすぐ完成です。

代田の切通し

狭隘な道路沿いのうなぎの寝床状の敷地につくった7軒の長屋です。西には隣地の小学校の4mほどの高さの擁壁があります。近隣の日影で可能な最大の容積から形を決定しました。平面も屋根の高さも異なるため、7戸すべて違ったプランになります。そこでそれぞれの住み手がそれぞれ違った生活ができるようにと考えてつくっています。

最後に

作品紹介は以上です。話があちこちに飛んでしまいましたが、要は、空間を何かのためにきちんとつくりすぎてしまうと、建物が完成した途端に古びてしまう。なんとなくルーズな箱としてつくり、なおかつ外部との関係、あるいは内部同士の関係において、空間のむらをつくっておく、そのむらがあってばらばらなものを、住み手が築いていく、そういう家づくりを目指しております。ご清聴どうもありがとうございました(拍手)。