第55回 現代建築セミナー

講師

ジャン・ヌーヴェル/JEAN NOUVEL

テーマ 「近作を語る」
会場 2006年6月28日(東京)
2006年6月30日(大阪)

はじめに

きょうは最近の4つの作品紹介を中心に、私のバックグラウンドを話すなかで、作品を通して私の関心を位置づけたいと思います。どのような考えのもとに、これらのプロジェクトをつくり出しているか、ということを伝えるために最適だと思うので、昨年、コペンハーゲン郊外のルイジアナ近代美術館で開催した個展の話から始めます。

ルイジアナ・マニフェスト2005展

「ルイジアナ・マニフェスト2005展」は2005年6月から9月にかけてルイジアナ近代美術館で開催されました。私自身がキュレートして新しい思考と建築についてのアイディアを展示し、そのなかで「ルイジアナ・マニフェスト」を書きました。マニフェストは建築の存在価値を明らかにし、世界各地にクローンのように建てられ続けている同じような建築に対して反対するものです。美術館の場所そのものがもつ感性を発展させ、その延長にどのような建築があり得るかということを模索しました。
ルイジアナ近代美術館はヨルゲン・ボーとヴィルヘルム・ヴォラートの設計による景観に配慮した施設で、1956年の最初の建物から1990年代にかけて何度も増築されていますが、すばらしい環境を維持しています。ヴォラートらはカリフォルニアという新世界への旅から帰って、風景のなかに組み込むという新しい考えを反映させて設計しています。この美術館の環境と連続性を持ったどのような追加が考えられるか、それがテーマです。
私もそこに仮設の建築や造形をいくつか加えてみました。まずリチャード・セラの彫刻のある芝生の庭の片隅に、ヴォラートの対談が流れるスクリーンが設置されている小さなパビリオンを設置しました。ここは同時に展望台でもあり、開口部からさまざまな風景が切り取られて見えます。もうひとつは、水際に突き出した仮設の桟橋の先にベンチをつくりました。これは美術館の敷地と建物と海との関係を感じ、建築と景観の関係を理解できる場となっています。

ルイジアナ・マニフェスト

ここでこれから読み上げることは、すべてに一般的に適用できるわけではありません。私が建築を生み出すときに頭のなかで考えていることをより深く理解してもらうためにまとめたものです。その「ルイジアナ・マニフェスト」から主要な部分を朗読します(全文は『a+u』2006年4月臨時増刊号参照)。
「この地球上に住む喜びという建前から、われわれはゾーニングやネットワークやグリッドという都市計画に対抗しなくてはならない。すべての大陸、すべての地域において都市のアイデンティティを消滅させ、複製のオフィス、複製の住居、複製の店舗を増長し、思考と観察を回避して既成の試行見慣れた光景を渇望し、自ら堕落へと向かう道筋に抵抗しなくてはならない」
「我々は自然という魅力的な必須条件からあまりにも遠い存在となっている」
「もう抑圧の、お仕着せの生活はいらない。我々を番号化してしまう型番つきの建築はいらない。複製都市や世界共通のオフィスやすでに満たされた住居はいらない」
「建築は変化を伝えるための手段である。日々の生活とさまざまな出来事により変化づけられ、永遠に続く」
「建築はその時代を記す。建築ははかないものだと我々は知っている。建築は生きているものだと我々は思っている」
「歓喜は時にありそうもないが不可欠の触媒作用となって、理性的な疑問や偽らざる絶望感を抑圧的な力に変貌させる」
「建築はあなたの心の最も深い部分から生まれた贈り物だ。それは社会を構成する過程であり、さまざまな地域やささやかな喜びや感覚をつくり出だし、現実の世界へ一瞬の間浸らせる。建築を宇宙の変化にいつまでも共鳴するように振動させよう」
「大量生産式に機械的につくりだされる建築を糾弾するのだ。攻撃し、包囲しよう」
「ルイジアナの建築に与えられた任務の一つは、一般的な建築には想像もできないものを完成させ、新しい指標を与え、多様化させ、改良し、考え出すことである。すなわちそれが存続している期間保護し続けることなのだ。ルイジアナ人になろう、抵抗しよう。存在するとは思えない建築をつくり直そう。経験と詩情を合一させた建築はある場所に痕跡を残し、その場と運命を共にする。次のすべての領域でルイジアナ人になろう。
ペトラ・ブレッセからSANAAまで、ヴェネチアからマンハッタンまで、シャルトルからロンシャンまで、漁師小屋から砂漠のテントまで、リオの貧民街からルールの工場跡まで、桂離宮からルイジアナまで......
時間と照明のぶつかりあいのすべて、詩的なパラドックスのすべて。この奇跡的なパラドックスをポール・ヴァレリーが次の一言にまとめている。"時はきらめき、夢は知識である"と」。

ルイジアナの展示から

内部の展示をいくつか紹介します。室内の壁にマニフェストを書いた部屋があり、中央にはマニフェストを印刷したフリー・ニュースペーパーが積み上げられ、入館者は自由に持ち帰ることができます。アテネ憲章以来、都市計画とはゾーニングなどのルールに則ってつくられてきましたが、私がここ数年取り組んでいる都市計画は、バレンシアでもリスボンでもパリでも、もう少し理解しやすい計画を目指しました。パリのレ・アール地区の都市計画では、3つのレベルの庭園をつくり、いちばん高い庭園からはパリの街並みを屋根越しの景観として楽しめるという提案にしました。建築がまわりのものと関連づけられ、統合されて、ときには2つの要素の間にあまり目には見えない形でなにかが表現されている。都市計画とは、世界のある部分を一時的に変更しただけであるという意思表示です。もうひとつ、この展覧会のゲスト・キュレーターであるジャン・ルイ・フロマンは私の都市に対するこうした考え方を、漫画家がどのように表現するかという「Dream for the City」という部屋を構成してくれました。

マドリードの王立レイナ・ソフィア芸術センター増築 2005

建築家フランシスコ・サバティニ設計の18世紀の病院を転用した本館の南側の三角形の土地に増築し、新たな入口、企画展示室、図書館、ホール、レストラン、収蔵庫が新たにつくられました。私は既存の本館とは切り離して計画することでコンペに入選しました。まるで本館の木陰にあるような建物にしました。企画展示室、ホール、図書館の3つの建物が独立して建ち、全体に赤い大きな屋根をかけ、中央は三角の中庭広場になります。屋根には大きな開口があり、暑いマドリードに光と陰と風を呼び込みます。三角の頂点に位置するカフェ・レストランは真っ赤なポリエステルの天井の下に高さのさまざまな白いテーブルだけがあり、夜は椅子がセットされ、基本的には何もない空間にまとめています。広場の中央にリヒテンシュタインの大きな彫刻が置かれています。図書館の内装はジョトバウッドというブラジルチェリー材で仕上げ、高窓を覆うベネチアン・ブラインドは幅7mという大きなもので光を調整し、さらにガラスレンズで構成した天井が屋根からの光を拡散して室内に導きます。光がさまざまに変化して、一種のあいまいさを生み出し、夢のような時間をつくり出します。大屋根の開口を通して見上げると雲が流れる空が見え、その空がメタモルフォーズして光となって身近なところに入ってきます。地上24mのテラスから眺めるとプラド美術館を含む周辺の街並みが手に取るように見え、屋根の軒天がミラーとなり、逆さの風景が写しだされ、市民もびっくりするような新鮮な風景を生み出しています。

バルセロナのアグバー・タワー 2005

カタロニア地方はスペインのなかでは特殊な独立意識の強い地域です。その中心都市バルセロナに建つアグバー・タワーというオフィスビルです。近くには有名なガウディのサグラダ・ファミリアがあり、海岸近辺には新しいアメリカ型の高層ビルが林立していますが、ここから旧市街にかけては低い家並みが続くだけの景観のなかに高い建物をデザインしました。実は都市のなかでクローン状に反復を繰り返す高層ビルほどひどいものはないという考えをもっているので、アメリカ型の同じようなファサードで構成される建物はつくりたくなかった。昔の街はどうであったか、高いものは教会の塔や市庁舎の鐘楼で、街のアイデンティティを象徴していました。だからバルセロナにふさわしいタワーを考えました。ガウディは放物面や花や星を先につけたピナクルを用い、光や輝き、色彩といったコントラストの強い独特の形を創りだしていますが、バルセロナ近郊のモンセラートの山並みに風が戯れて作り出した造形がカタロニアの造形の源なのです。私もそれを踏襲しました。19世紀にセルダの描いたグリッド状のバルセロナの都市計画地図の郊外の中心に位置するグローリアス広場を交点にして、ディアゴナルという対角線状に走る道路が計画され、ここ数年の海岸地域の開発でこの通りが海岸まで延びました。アグバー・タワーはこのグローリアス広場に面しており、街の歴史的な発展を象徴する建物といえます。広場に現存するインターチェンジは解体して、新しい街の中心広場に改造される予定です。パラボロイド形の建物は上階がすぼまり、各階平面はまるで人間の頭のスキャン写真のようです。タワーを形成する材質が重要です。空を吸収してしまうような素材で、空に溶け込むようなガラス・ルーバーで包まれた外装としました。ダブルスキンで内壁はコンクリート躯体部分も含めて1m角モジュールで全体をピクセル的に構成し、開口部は開閉も可能です。角度のついたガラス・ルーバーは光の関係で近くからは白く見え、遠くからは透けて見えます。内部からは外壁のピクセル化が光によってより鮮明になり、天井や壁や床の艶消しの塗装によって光があいまいに拡散し、まるで水のなかの光景のようにぼやけて見えます。先細りの上階では開口を大きくとり、縦交通シャフトの頂部が2つ目のピナクルとなって中央に出現します。夜間は特殊な照明で地元のサッカーチーム・バルサのカラーである赤と青でライトアップして演出します。街のあちこちから見えるシンボルになりました。

ミネアポリスのガスリー劇場 2006

ミネアポリスのダウンタウン、ミシシッピー川の流れの横、かつては船運が盛んで、大きな製粉工場が歴史的な建物として残る河川敷公園の一角に建つ劇場です。ミシシッピー川が大きな落差をもって流下する、つまり滝があってここで一旦船荷を下ろさなければならなかったために発展したという街の誕生の歴史と対話をする建物として計画しました。私は、劇場は工場、あるいは工場のなかで展開するプロセスと考えました。まず街との対話のために、劇場を高い位置に持ち上げることを提案しました。そして地上15mの高さで先のほうに行くと川と滝が眺められる橋を川に向けて55m突き出して設けました。橋は建物を突き抜けて反対側にも延びて駐車場ビルとつながっています。ミネアポリスは通りの両側の建物をスカイウエイと呼ぶ空中歩廊でつないだモールで有名な街です。それをここでも踏襲しています。製粉工場は往時のままに看板まで残されています。そこで劇場は全く色の異なる青い金属パネルでつくり、もうひとつの工場のようなシルエットにしました。バーナード・ショーなどの劇作家の大きなポートレートが壁面を飾り、内部でもゴーストと呼ぶ、映像によって人物像が映し出されます。1100席のプロセニアム形式の大劇場と元のガスリー劇場の形式を踏襲した700席の円形劇場があり、中央に共有のロビーを配置し、そのあちらこちらに外部に向けて開いた開口部があり、さまざまな景色が目に入ります。突き出した橋の端部は青いガラス越しに川が見え、景色がモノクロ写真のように抽象化され、すぐ脇の側壁に開いた小さな開口部の透明ガラス越しには現実の景色が見え、そこでもひとつのドラマが展開します。また、ここでもマドリッドと同様、壁の厚みの部分のミラー効果によって景観の複製をつくり出しています。大劇場は真っ赤で、円形劇場は秋の紅葉の色合いです。赤は演劇空間の基調です。大劇場の最上階の250人収容の多目的ホールのロビー空間の、川に向かった先端部に黄色いガラスの箱があり、スキーのゴーグルで体験するように、そこに天気の悪い日でも明るい景色が展開します。夜間は外壁のパネルにもゴーストの映像が映し出されます。屋上には、製粉工場の看板と対応したビーコンも飛び出しています。

パリのケ・ブランリー美術館 2006

パリのエッフェル塔の足元、ゆるやかにカーブを描くセーヌ川南岸、並木道も曲線を描いており、西にブルドネ大通り、南にウニベルシテ通り、周辺にはオースマン建築が建ち並ぶという環境にあります。そこでセーヌの曲線に合わせたガラス張りのグランドギャラリーを中央に配置し、西側にはオースマン建築を残した外観の管理部門を配置しました。対岸から眺めると、施設全体が木々の間に埋もれて見えます。ここでは建築をつくるというより、ひとつの領域をつくることを目指しました。オセアニア、オーストラリアやアメリカの原始美術のコレクションのための施設で、西欧的でない、宗教も異なる、ある意味で神聖な異文化を展示する施設なので、西欧とは違った領域を創りたいと考えたからです。敷地の2/3を植栽した庭とし、パリの日常から美術館という異世界に入るための移行の場としています。ギャラリーの天井は星空、あるいは宇宙です。セーヌ沿いのオースマン建築と並ぶ西北隅の管理部門の建物の外壁を、パトリック・ブランの協力を得て水分を含むフェルト状の外皮に植物を植えた緑化壁としました。緑化はインテリアにまで及び、さまざまな緑化壁が内部でも出現しますが、一種のエコシステムです。美術館としては珍しいのですが、各展示コーナーの展示物が決まっているというここで、作品のボリュームや特質を考慮して展示空間を考えることが可能でした。ギャラリー南北面の上階にはブリーズソレイユがつき、光を調整します。人々は葦原のなかの道を160m辿ってエントランスに至り、ピロティ下でチケットを買うために並びます。南側では大きく円弧状に白い穴あきメタルの外壁の企画展示室が飛び出しており、その下は大ホールになっています。その上階から始まる細長い主展示室では、ブリーズソレイユを通した光のモワレやステンドグラス越しの光でそれぞれのテリトリーが分断されています。"スネイク"と呼ぶ自然に近い空間で、間仕切り壁も皮でできています。さまざまな展示作品の間を鑑賞者は迷路を辿るように巡って歩きます。北側の壁に突出した小さなボックスのなかもそれぞれ展示コーナーになっています。屋上はテラスになり、両端に図書館とレストランがあります。
アトリエ棟はアボリジニのアーティストと一緒につくりました。ヴィム・ヴェンダースのアボリジニの映画を見てから私は彼らに関心を持ち、彼らの芸術はいまも生きていると考えるようになりました。アボリジニの作品は小さなスケールのものがほとんどで、ここでの壁や天井のようなスケールは初めてのことでしたが、見事な絵を描いてくれました。通りからもよく見えます。ブックストアの天井にも描いています。
実は、建物のある部分の形が刀に見えるということからいつの間にか"SAMURAI"というニックネームがつきました。私の話は以上です。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

質疑応答

質問

すばらしいスライドを使っての講演ありがとうございました。2年前にデンマークに留学していたので、ルイジアナ美術館はよく訪れ、懐かしくスライドを拝見しました。ルイジアナ・マニフェストのなかのある部分が少し気になっています。「建築はその時代を記すものである」というフレーズを聞いてミース・ファン・デル・ローエの有名なフレーズ「Building art is spatially apprehended will of epoch建築は構築されたその時代の意思である」というのを思い出しました。つまりミースは鉄とガラスの素材を使ってフレーム構造でユニバーサルな空間をつくり、それでもって建築で近代社会を表したわけです。ジャン・ヌーヴェルさんは現代という時代をどのように捉えておられるのか、さらにその考えを建築化するときに気をつけておられることは何かをお聞きしたいと思います。

ヌーヴェル

私なりの定義から常に出発します。ミースはいろいろな限界を超えようと試み、すべてを白紙に戻して考えました。私もミースには大きな賞賛の念を抱いています。ミースの建築はピュアで本質を問いかけるものです。しかし、私は彼と同じ時代を生きてはいません。したがって、ミースと同じ哲学で建築を創っているわけではないのです。つまり私は過去をすべて白紙に戻すことができないし、戻したいとも思いません。言い換えれば、私たちは過去、いままでの歴史に対して反論していくべきだと思います。自分がいま生きている時代の目で分析すべきです。建築を抽象的に追及すると、たとえばミースは東西南北同じファサードの建物をつくりました。しかし現実にはまわりの環境、あるいは太陽の動きひとつをとっても同じではありません。その場所の歴史や地形の考慮も当然求められます。時代を混同して考えてはいけないと思うのです。建築は文化のフィルターを通して読み解くべきです。近来の大きな冒険は叙事的だったと読み解くべきです。いわばなにかを征服してボキャブラリーを広げていくという意図、それは叙情的な抽象化の時代だったのです。技術的には急速な発展で、すべてを変えていけると信じていた時代で、たしかにいまの私たちの基盤になっています。20世紀の建築はすでに21世紀の基盤になっているのです。20世紀のすべてを私たちは現在使うことができます。しかし、その本質を取り除き、カリカチュアだけを取り上げると、最初に述べたように、空から同じ形のオフィスビルが降ってくるように、均質な建物が続出する。しかし、それはそこに住む人たちを尊敬せず、無視しています。私が目指しているのは、毎回その度ごとに創造することです。建築を通して、世界をほんの少し拡張することです。なぜなら現代はどこでも同じという現象で世界が小さくなっているからです。建築はアイデンティティの基準なのです。